第3話・1幕

『宿命の楔、村木砦の戦い』

 

 

 


 今川家が尾張侵攻の第一歩として尾張に打ちこんだくさび、村木砦。尾張の命運をかけた戦いが、いま始まろうとしていた。
 織田軍は夜明けを狙って奇襲をかける作戦である。夜明け前、緒川城では兵たちが出立の準備をしていた。
「信長殿。船の準備ができました。我が水野軍はいつでも出陣できます」

「忠分。この戦い、なんとしても勝たねばならん。頼んだぞ」
「水野兵の力、存分に見せつけて参ります」
「殿。我らも準備は整っております」
「信光殿。かつて今川との戦いで七本槍(しちほんやり)と呼ばれたそなたの活躍、期待しておる」
「兄、信秀は、殿のことをよく語っておられました。この尾張と、日本の人々の希望だと。付いて参ります」
「必ず勝って帰ろう」
「必ずや」
 普段は口数が少なくおとなしい信光も、こたびは尾張をかけた大戦である。雄渾な真の姿を表して信長の期待を膨らませた。
「みな、お揃いで」
 濃姫が稽古着でもある袴姿で現れる。
「おい、お濃。なぜ具足をつけない」
「戦は初めてで、甲冑をつけてみたはいいがなんだか動きづらくて。このほうが身軽でよいのです。いつもこの格好で稽古を重ねてきた。緊張しなくてすみますし」
 信光は冷静に、
「たしかに籠城戦で薙刀を振るう女たちはみなこのようなお姿で戦われる。奥方は薙刀術では右に出るものはおらぬほどの腕だと聞いております。しかし決してご無理はなさらず。殿のためにも」
 とんでもない。濃姫は最前戦で戦う見込みで軽装にしているのである。

 忠分が拳で胸を叩き、威風堂々と、
「南の負担が軽減されるよう、東西のわれらが全力を尽くし門を突破いたします」
「兵はだれひとり使い捨てではありません。われら将がその気持ちを忘れずにいれば、必ず勝てると信じています」
「承知した」
「承知」
「承知した」
 信光、忠分、信長が次々に声をあげた。
「殿。砦の中で待っておりますぞ」
「忠分、いくがよい!」
「はっ!」
 まなじり決し、忠分が出立した。
「それでは殿。砦の中で」
「信光殿、頼んだぞ」
「ははっ!」
 信光が去ったのを見て、信長は小さく問うた。
「お濃。なぜみなのまえではおれを殿と呼ぶのだ」
「みなのまえで、おまえ、などと言えるはずない。おまえがみなから馬鹿にされるではないか」
「そうかもしれないが……。おれは、いつも通りのおまえがいい」
「まったく、うつけでございますな。殿」
「やはり甲冑をつけてはくれぬか」
「わたしを信じろ。甲冑をつけたらきっとつまずいて刺されてしまうぞ。矢や鉄砲が飛んできたらどうせけがをするのだから同じことだ」
「作戦通りにな。前には出るな」
「……もう一度、一緒に月を見たいからな」
「必ず生きて帰り、またそうして笑ってくれ」
「承知した」
「出陣だー!」
 緒川城を出た織田軍は、東雲の時刻には砦周辺に接近。
 このとき、砦の兵力はおよそ八〇〇。信長たちが予想した中で最多となる兵力であり、三河衆と呼ばれる精鋭の中の精鋭である。
 まず、東の大手門に水野勢二〇〇。西の搦手門に織田信光勢二〇〇が忍び寄った。
 後方の天王山に信長と、決戦部隊である馬廻衆一〇〇人が本陣を構え、濃姫率いる南の大堀部隊、足軽鉄砲隊一〇〇、

弓足軽隊一〇〇、槍足軽隊五〇〇が待機していた。

 そして――。

 信長のもとに馬が走ってきて、伝令、
「殿! 味方の兵が門に接近いたします!」
「わかった。みなの者よく聞け! この戦いに敗れれば、尾張は今川の物となるだろう。我らにあとはない! だが決して死んでもいいと思うな。死んでもいい者など、織田軍にはひとりもおらぬ! 必死に生きよ、必死に生きてこそ、生涯は光を放つ! 進めー!」
 轟音とともに大堀部隊が進軍する。
 濃姫が薙刀を持って現れ、
「殿。ではわたしもいきます」
「待て。やはりおまえはここにいろ。堀周辺の指揮はほかの者にとらせる」「わたしはまだ戦をしたことがない。とても怖い。だが怖いのは兵たちも同じ。わたしが育てた兵たちです。わたしも行かねばなりません」
「しかし……」
「必ず生きて戻ります。殿が信じてくれるなら」
「……わかった。だが決して無理をするな」
「行って参ります」
 しゃちこばることもなく、見つめあうこともなく、一颯、駆けていった。


 夜明けと同時に、南大堀に信長直卒部隊が奇襲をかけた。
 織田軍が攻めてくることは予想していたが、すでに東西の門を攻めている部隊だけであろうと思っていた三河衆は驚いて南に戦力を分散させた。そして鉄砲隊を配置して迎撃しようとした。
「鉄砲隊、左右に展開して足軽隊を援護せよ!」
 だれも聞いたことがない濃姫の大声で一朶の軍団が左右に展開した。
 砦から少数の鉄砲隊が足軽部隊を狙って射撃を開始する。何人かは直撃を受けて倒れたが、数に物を言わせて攻めたてる。
 足軽隊が堀に入ってはしごをかけ登りはじめた。
 濃姫は味方の鉄砲が足軽に当たらないよう、堀のそばまで接近して、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一斉射撃!」
 見事、敵の鉄砲隊を下がらせた。
「姫様。ここでは敵に撃たれる恐れが。後方へ」
「敵に撃たせなければよい、絶え間なく撃て!」
 足軽が登りきろうとしたところで、槍で突き落とされた。
「いまは撃つな、味方に当たる」
 ここから先は数で圧倒できるかどうかだ、と敵の数を知らない濃姫は、いずれ東西の門が開き、砦も登りきれると思っていた。

 太陽が昇りきったころ、天王山の信長のもとには戦況が伝わっていた。だが、信長はまだ動かず、指令も出さなかった。
 南は敵の鉄砲を封じたものの、槍による防御がかたく困難を極めていた。
 登りきれず突き落とされ、堀は死体の山となっていた。
 東西も一進一退にて、戦況いまだ定かならず。
 敵の数が多すぎる――。濃姫の脳裏には最悪の事態が浮かんでいた。
 間違いなく勝てると思っていた。多くの犠牲が出ることは覚悟していたが目の前に広がっている惨劇はもはや直視できるものではなかった。
 ある者は槍で眉間を貫かれ絶命し、ある者は、はしごから落とされ地面に体を砕かれて、苦しみながら死んでいった。
 最初は前方を直視していた濃姫も、次第にそれから目をそらすようになり、ついには後方の天王山に振りかえった。
 なぜ信長の姿を求めて振りかえったのか、自分でもわからなかった。撤退して、態勢を立て直すべきだと言いたいのか。いや、これを逃せば次はない。それとも、天王山の部隊を動かすべきだと言いたいのか。失えば天下統一の夢が烏有に帰する、最後の兵力を。
 自問自答しているうちに、結局、目の前にある惨状や恐怖から逃れたくて、信長に助けを求めているだけではないかと気づいた。
 兵たちが戦っているのは、織田家のためではない。自分とその家族のため。だから命懸けで戦えるのだ。
 この戦にどのような命運がかかっているか、わかっているようでわかっていなかった。
 目の前で起きていることは、まさに命と命のぶつかりあいであり響きあいなのである。
 信長はわかっているからこそ、撤退命令など出さないのだ。兵たちもわかっているからこそ、登れぬとわかっていても登ろうとする。
 それに気づいて自分が情けなくなり、そばにいる兵らに気づかれぬように涙をぬぐった。
「登れ! 登らねばあとはないぞ! 登らぬか! 槍隊、第五陣、突撃せよ!」
 槍隊の半数近くを失い、残りわずかの槍隊を送りこむ。
 圧倒的に劣勢ながらも、濃姫の声に押された兵たちの士気が最高潮に達し、怒涛のごとく攻めたてた。
 ひとりが登りきったかと思ったが、それも既のところで内部に構えていた弓隊に射抜かれ落とされてしまう。
 開かぬとわかっている扉。登りきれぬとわかっている砦。そんな状況で勝つためには、いかに味方を信じられるか、というよりも、いかに自分を信じられるかにかかっている。このまま戦い続けるしか方法はない。そう信じきれる鋼の心が自分になければ、瓦解する――制することのできない戦。
 濃姫がすすり泣きはじめたことに、そばにいる兵たちが気づいた。
 それでも、濃姫は撤退命令も、天王山に救援も出さなかった。光秀から教わったように、それがいま、持たなければならない『上に立つ者の覚悟』であると信じた。
 南側の敵兵の勢いが増したように見えた。それでも、堀を埋めつくす死体を踏み台にして兵たちは登りつづけた。
 濃姫は嗚咽をこらえ、口を手で塞ぐ。
 ……。
 …………。 
 そのときである――。
 砦の側面から狼煙が上がった。
「姫様、あれを!」
「あれは……大手門……」
 なんと大手、開門の合図である!
 砦の中は大混乱に陥り、南の敵兵が乱れたところで、ついに六鹿という男が登りきり、外郭を超えた。
「全部隊突撃! 槍を拾って槍隊に続け!」

 このとき、さらに今川の援軍二〇〇人が砦に接近していた。