第2話・2幕

『ふたりでひとつ』

 

 

 


 光秀が那古野城を発った夜。蒲団のなかで信長と濃姫は、竹千代を挟んで向かいあっていた。
「こら竹千代、あまりお濃にくっつくでない」
「これ。もう眠っているのだから静かに。まだ6歳の子どもだ。あまえて一緒に寝たいと思う年頃だ。だからいいのだ」
 まだ若く、体を重ねたことがないふたりには子どもがいない。竹千代が自分たちの子のように映っていた。
 初夜の翌日。いったんは強い絆で結ばれ、いま綻びていた関係が、竹千代のおかげでよくなろうとしていた。
「不思議だな。こうして子を挟んで寝ていると、まるで家族のようだ」
「……お濃……光秀は、どうだったのだ」
 と、またぶりかえすようなことを言いだす。
「稽古のことはもう話した」
「いや……すまん、なんでもない」
「このあいだもそうだ。おれがいないほうがいいのではないかなどと、わたしを試すようなことを言った。なにが言いたい。
わたしがまだ光秀を想っているか、聞きだしたいのか? おまえについていくと言いながら、まだ光秀を忘れられないと言えば、それを責めたいのか?」
「深い意味があって言ったのではない。たんに光秀という男を詳しく知りたかっただけだ」
「嘘だ。鶴姫を忘れられたのか? そのおまえが、わたしにだけ忘れろと言いたいのか? おまえが鶴を忘れられないのはよくわかっている。わたしがここに来た日、おまえはけじめをつけてきたと言ってくれた。その言葉に嘘はないと思っている。だがそう簡単に忘れられるものではないことは、ちゃんとわかっている。鶴を目の前で失った悲しみも、痛いほどよくわかっているつもりだ。だからわたしは、おまえに鶴のことを聞いたことは一度もない。それでも……わたしだけを見てほしい……おまえだけを見ていたい……。ここに来たあの日からずっと、そうありたいと……毎日必死に思っているのに……。なのにいつもおまえはそれを邪魔をする。いまこうして向きあって、はじめて家族を感じられたそんなときに、過去をほじくりかえそうとする
………見損なった」
 ふたりの声で竹千代が目覚める。
「んん……濃姫?」
「竹千代……ごめん。大丈夫だから、目を閉じて………」
 信長は鶴姫を、濃姫は光秀を忘れることができないでいたのは確かである。信長は、ゆいいつひとりの男として見てくれた鶴姫を失っている。そのため、もう二度とそばにいる女性に離れてほしくない、失いたくない。その不安が、何度も光秀のことを口走らせるのだ。
 過去をほじくられるようなことを言われても濃姫が信長を見捨てないのは、濃姫がそのことを察していたからだ。なにより、鶴姫を目の前で失った悲しみをよくわかっている。光秀は生きているし、会おうと思えば会える。早く過去の人を忘れなければならないのは、信長よりも自分のほうなのだと言い聞かせていた。それほどまでに信長に尽くしていこうとするのは、美濃を発つまえに、兄と喧嘩をしたからだ。兄は政略結婚に反対していたが、国のために嫁ぐと決心した。兄はとても純粋で優しかった。だから兄のためにも、絶対に幸せになると誓ってここに来ていたのだ。


 半月が経ったある日。信長は海岸で竹千代と木刀で稽古をしていた。大人になってから幼い子どもを相手にしたのは初めてだ。人なつっこい竹千代の世話で疲れきって、竹千代と砂浜に寝転ぶ。
「なあ信長。濃姫と、なぜ口をきかないのだ?」
「お濃か。そういえば、もう何日も話らしい話をしていないな」
「濃姫のこと、好きか?」
「ああ、大好きだ」
「どんなところが?」
「いつも明るく、笑顔がとてもまぶしい。那古野城のどの花よりも生き生きとしている。言いたいことははっきり口にする。そして男勝りで、人前では泣かぬような顔をしているのに、実は少し泣き虫なところだ」
「そうかあ! でも、泣くのは信長のせいではないのか? このあいだ一緒に寝たときも、濃姫は目を赤くしていた。いつも泣かせているのか?」
「おまえ、まさかあのとき、ずっと起きていたのか?」
「あ、うん……。信長。濃姫が言っていた、鶴姫とはいったいだれなのだ?」
「おまえは知らなくていい」
「だれにも言わぬと約束する」
「……おれと互いに惚れていた仲だ。お濃が嫁いでくるまえ、おれを狙った刺客からおれを逃がそうとして、殺された。
「鶴はおれに、天下を統一して戦のない世の中をつくってほしいと言った。おれはその願いをかなえてやると誓った。
おまえやお濃のように、親から離れて生きなければならない子をなくすために、必ず天下を統一してみせる」
 竹千代が立ち上がって言った。
「信長。いつか信長のためになにかしてやりたい」
「どうしたのだ急に」
「いつか、信長がかなえたいという願いを、おれにも手伝わせてくれ」
「竹千代……」
「いつも遊んでくれたり、稽古の練習をしてくれる恩返しだ。約束する」
「竹千代……必ずだぞ」
「濃姫は、おまえのことが大好きだ」
「なぜそう思う?」
「あのとき、泣いていたから。母上から聞いた。女が男の前で泣くのは、その男が好きだからだと。嫌いな男には涙は見せないと。きっと、鶴姫も信長の前でよく泣いていたのだろ?」
「鶴……ああ、よく泣いていた。いつもおれにいじめられて、おれの前で泣いていた」
「だから濃姫は、信長のことが大好きなのだ。おまえも濃姫が好きだから泣かせるのだろ? ほら、早く行こう」
「どこへ」
「濃姫と仲直りだ」
「ああ、行こう」

 城に戻った信長は、庭で弓矢の稽古をしている濃姫のもとへ向かった。濃姫を近くで見守っていた政秀が、やってきた信長に小声で言う。
「殿。姫様となにがあったのでございますか。きょうも朝からずっとあの調子でございます。矢はほとんど的にあたっておりませぬ。それでもずっとあの様子です。見てはおられませぬ」
「お濃とふたりにしてくれぬか」
 政秀が去ると、信長は濃姫のうしろに立ち、弦を引く濃姫の手に自分の手を重ねる。
「ふたりでやれば、きっとあたる」
「やめろ……離れろ」
「あの日、おれの妻として誇りを持ってここで暮らし、天下の夢を手伝ってくれると言ってくれたとき、言葉にできないほどうれしかった。そして思った。過去を忘れておれだけの女になってほしいと。おれたちはふたりでひとりだと。死ぬときは一緒だと。お互いそう思える仲でありたいと。だがおれは鶴を忘れられる勇気がなかった。なのにおまえには光秀を忘れてほしいと思って、おまえの気持ちを探ったりした。おまえの言うとおり、おれは最低だ。夫らしいことはなにひとつしてやれてない。
いまからでも遅くはないと言ってくれるなら、時間はかかるかもしれないが、おまえだけを見ていられる男になる。きっとおまえだけの男になる。だからそのときは、おれだけの女になってほしい」
 放たれた矢が、的を射る。ど真ん中ではなかったが、見事といえる位置だ。
「その言葉に偽りがないと言うのなら、おまえが死ぬときは、わたしもついていく。天下統一の夢は、どちらか一方が欠けた状態では成し得ない。だから、なにがあってもわたしを守ってくれ。なにがあっても、わたしはおまえを守る」
 この日からふたりは、ただお互いだけを見ていたいという思いを片時も忘れることなく、夫婦としての絆を深めていった。

 しかしそんななか、悲しい出来事がふたりを襲った。
 この年の秋、三河の松平家の拠点である岡崎城城主で、竹千代の父でもある松平広忠が家臣に殺害されてしまう。松平家次期当主である竹千代を織田家に奪われている以上、岡崎城は無主の状態にあるため、松平家は、竹千代の奪還と、西三河の完全な支配を目指し、今川勢とともに進軍。西三河にて激突した両軍は、今川、松平連合軍総勢10000人に対し、織田勢は4000。織田軍は奮戦したが大敗。この戦で信秀の長男、信広を人質にとられた。そして今川と松平は、信広と竹千代の人質交換を要求してきたのである。
これを飲んだ信秀に、信長は怒りをぶつける。
「なぜだ! なぜ竹千代を!」
「すべてはこの戦で負けたわたしに非がある。だが、人質にとられているのはおまえの兄でもある。まだ会ったこともないだろうがそれでもおまえの兄でありわたしの子だ。見捨てるわけにはいかない」
「それが戦なのだろう!? 大人の都合で幼い竹千代をもてあそぶのか!」
「松平は当主である竹千代を、わたしは息子を取り戻したいと思っている。それだけなのだ。わたしを恨みたければ、恨んでもよい。だが、わたしはいままでおまえの意見を否定してきたことはない。おまえのためならなんでもしてきたつもりだ。こたびだけは頼みを聞いてほしい。どうかこのとおりだ……!」

 信秀の言う通り、鶴姫との関係も認めてもらい、応援もしてもらった。うつけ者と呼ばれていた自分に真剣に向きあい、天下統一に向けた歩みかたまで教えてもらった。その父が懇願している。反対できなかった。濃姫は強く反発したが、逆らえないことはわかっており、従うしかなかった。

 城門前で竹千代を見送る信長たちは最初、不安にさせないよう明るく振舞っていた。
「竹千代。あちらへゆけば、また友や兄弟に会うこともできよう。おまえはいつか、おれと一緒に天下を取ると約束してくれた。だから必ずまた会えるときが来ると信じている」
「わかってる。約束した」
「おいで、竹千代」
「濃姫……」

「泣きたかったら、泣いてもいいのだぞ」
「母上……」
 無意識に、濃姫を母と呼んだ。濃姫は耐えられなくなり泣きだしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「竹千代……また会えるから。会いにいくからね」
「わかっている。だから泣かないで」
「ごめんね……。大丈夫。大丈夫だから……。竹千代、これを持っていきなさい。父からもらったものだ。指先ほどの小さな竹笛だが、心から願って吹けば願いがかなうといわれている。わたしがここに嫁いでくるときも駕籠(かご)のなかで吹いていた。そして幸せになれた。竹千代も寂しくなったら、これを吹くの。きっとわたしに耳に届くから」
 授けたのは、霊力が込められているという斎藤家の伝説の家宝である。
「必ず大事にする」
「きっとよ。さあ、いきなさい。また、すぐに会えるから」
「濃姫。笑ってくれぬか」
 そう言うと、濃姫は涙を拭って笑を浮かべた。
「やはり、信長の言ったとおりだ。濃姫の笑った顔は、那古野城のどの花よりもまぶしい」
「え?」
「こら、竹千代」
「行って参る!」
 竹千代は駕籠に乗りこみ、運ばれていった。その姿が見えなくなるまで、ふたりは立ちすくんでいた。
 見えなくなったとき、濃姫は泣いて震えだす。自分の子同然に思っていた竹千代を、自らの手で乱世に放った。命じられたことではあるが、竹千代の手を最後に放したのは自分だ。
「悔しくて……悔しくて…………悔しくて……」
 信長の胸にしがみつき、襟元をつかんで何度も信長の体を叩いた。
「おれはまだ無力だ。まだ6歳だ。その竹千代ひとり、救えなかった。家族同然の竹千代を」
 濃姫はしばらくすると泣き止んで、こう言った。
「おまえに罪があると言うのなら、わたしにも罪がある。自分だけ背負おうとするのはやめてほしい。わたしたちは、ふたりでひとりなのだから」
「……ああ。その通りだ」
「手を握ってくれないか……。いつでもこうして、お互いの手を握られる距離にいよう」

 竹千代は今川家に送られ、そこで人質としての生活を送ることになった。必ずまた会えると信じて。そして、松平家の嫡男である竹千代を人質として得た今川家は、裏切った戸田康光の立て篭る城を滅ぼし、松平家が支配してきた三河を完全に支配下におさめた。
「竹千代が呼んでいる。笛のねが聞こえるような気がする」
 濃姫はいつもそう口にしていた。いつか竹千代と再会できると信じる気持ちがふたりの絆を強めていき、互いに気持ちを探ることはもうなかった。

 そうして、2年の歳月が流れたころ。信長の命運を左右する出来事が起きる。信秀が病に倒れ、重篤となったのである。信長を支援してきた信秀が倒れたことで、尾張の反信長勢力がいよいよ動きだす。
 宿命の敵、今川を前に、信長と濃姫は最初の試練を迎えることになる。