第2話・1幕

『濃姫、明智流奥義への試練』

 

 

 

 

 春の入口。濃姫が信長のもとへ嫁いでから約2ヶ月。信長は鶴姫を、濃姫は美濃に残してきた愛する人を忘れられずにいた。しかしふたりは日夜、乗馬や弓や太刀の稽古に励みながら、互いの距離を少しずつ縮めていたのは間違いない。
 早朝から、梅の木に囲まれた庭で弓矢の稽古をしている濃姫に世話役の男が茶々を入れる。
「そうではありませぬ。腕はしっかりこうやってかまえて」
「始めたばかりなのだ。的にあたるだけほめてくれてもいいだろう? 梅の香りが強くて集中力が途切れるのだ。なんでこんなところに梅の木があるのだ」
「たしかに。信長様も最初は同じように口にされておられました。この美しい景色と香りは誘惑、そして迷いにございます。
誘惑に駆られることなく、澄んだ心、迷わない心を得たときこそ、信長様のような弓の名手になることができましょう。信長様は、いまではすべての矢を真ん中に命中させることができるほどでございます」
「わたしの心は澄んでいないと言いたいのか? よくもほざいたな! この!」
 と男の首を締める。賑やかにやっているふたりのもとへ信長と政秀がやってきた。
「朝早くから喧嘩……いや弓矢の稽古とは、毎日のことながら感心いたしますな殿」
 気づいた濃姫が袴を正す。信長が弓の稽古はうまくいっているかとたずねる。
「やりかたは頭ではわかっているが、あと一歩がうまくいかぬ。それに、こやつはわたしの心が澄んでいないとほざいた。極刑を言い渡す」
 それを聞いた政秀は――。
「殿。いろいろと、非常に将来が楽しみでございますぞ」
「そこ、なにをぶつぶつ言っておるか。ちょうどいい、政秀。あっちに立って的になれ」
「そ、そんな殺生な」
「はっはっは、まことに愉快だ。どれ、お濃、かしてみろ」
 信長が弓矢を受け取り矢を射ると、見事にど真ん中に命中した。
「つぎはおまえだ。やってみろ」
 まだ真ん中どころではない腕前だが、負け嫌いな濃姫は弓矢を持って位置につく。
「おまえはおれの天下取りを手伝うと言ってくれた。その言葉に迷いはないか」
「もちろん、ない」
「その言葉に偽りも迷いもないと、いまここで誓えるなら、その矢が証明してくれる」
「……もし、当たらなかったら」
「自分の言葉に、自信がないのか?」
「わたしは、ただのひとつの嘘も言ったことはない」
 習ったことを思いだし、弦を引き絞る。引いた手の位置は首と右肩の中間、弓の高さは顎のやや下だ。
 放たれた弓は見事、ど真ん中に命中、一同が、おお、と声を上げる。 嘘みたいだとつぶやく濃姫に信長は言う。
「信念に生きる者は、何事にも屈しない。何事も可能にするものだ」
 安堵する濃姫を見て政秀は、その武芸の上達の早さに仰天していた。弓矢は始めたばかりで、信念だけでど真ん中に命中などできはしない。そこには間違いなく、濃姫の武芸に対する才能があるのは間違いない。それを確信した政秀は信長に提案する。
「これほど上達の早い者は、男も含め数えるほどしか知りませぬ。殿と同じく、武芸の才能は相当なものとお見受けいたしました。殿、ひとつ提案がございます。それぞれの武術の達人を城に招き、その者たちから習ってはいかがかと。たとえば、斎藤道三に仕える者に、剣術においては鬼才と呼ばれる男、明智光秀がおります。道三とは同盟関係にありますゆえ、快く承諾してくれるものと存じます」
「それは名案だ。どうだお濃。美濃にそれほどの男がいるのなら名は知っておるだろう?」
「え? あ、ああ、知っている」
 一瞬、言葉につまった濃姫の顔が曇る。
「どうだ? 俺は賛成だが」
 と信長は光秀の招致を濃姫に勧めると、政秀は高揚して手を叩き、小走りで去っていった。そしてすぐに手はずを整えた。
 

 何日か経った夜、稽古に疲れて早めに蒲団に入っていた濃姫は、体を起こして腕を揉んでいた。あちこち痛めたのだ。

 信長が入ってきて心配そうに言う。
「このあいだは弓矢、きょうは薙刀。毎日毎日、少し無理をしすぎているのではないか?」
「この程度、昔からやっていた。それに、早く強くなりたい。おまえは太刀もうまいし、乗馬も、弓も、泳ぎもうまい。わたしも、早くそんなふうになりたい。強い夫の妻が強くなければ、馬鹿にされる」
 そう言うと信長は横に座り、濃姫の腕を黙って揉み始める。うつけ者と名高かった男。そう呼ばれていたはずの男と、夜になれば 寝所を共にして、そしていまは、疲れた体を癒そうとしてくれている。濃姫はつくづく、自分の人生はよくも悪くも荒れ狂っているなと感心する。
 信長は前から言いたかったことを伝える。
「庭の梅の花だが、この咲いている時期におまえと出会えてよかった」
「なんでだ?」
「梅は百花の魁(さきがけ)だ。春になると最初に梅が咲き、それを追うようにして次々とほかの花が咲く」
 すぐには意味がわからなかったが、濃姫は天下取りを梅になぞらえているのだと感じ、うなずいた。だが信長の言いたかったことはそうではなかったのだ。その意味を濃姫が知るのは、まだずっと先のことである。
 濃姫の心の中には、忘れられない人がいる。信長はそれほどまでに自分を頼ってくれているのに……。あのときの言葉。濃姫としてここで暮らすという言葉は嘘ではない。だが、消せない想いがある。胸が押しつぶされそうになり、顔を背けて表情を隠した。
「あす、光秀が来よう。何日かこの城に泊めてやれ。無理せずゆっくりと習うといい」
「おまえは習わないのか?」
「おれは明日、行くところがあってな。それに……おれがいないほうが、いいのではないか」
「どういう意味だ……?」
「その……親しい仲ではないのか」
「……どうしてそう思ったのだ?」
「光秀の名を聞いたときのおまえの顔を見て思ったのだ」
「いまはおまえの妻としてここにいる。なのになんで、そんな言いかたをする……」
 信長の思っている通り、濃姫が美濃に置いてきた思い人は光秀である。それでも、忘れようと努力している。信長の言葉に対する失意と、たしかにあるうしろめたさが入り混じる。ひどく心が乱れ、信長を蹴飛ばしてしまう。
「もういい、あっちへ行け。外で寝ろ」
「夫に、しかも城主に外で寝ろとは無礼ではないか」
 自分が悪いのだと思い遠慮気味に言うが、濃姫は背中を向けて横になってしまった。謝ろうと肩に触れるが「触るな」と一蹴されてしまう。
「さっきのは冗談だ。すまん……。そうだ、言い忘れていた。あす、父上に呼ばれて――」
「ほざけ」
「本当だ! 真面目な話だ。松平家から今川家に送られるはずの人質が織田家に送られてきたらしい。それについて父と話し合わねばならん」
「ならば早く寝ろ」
 いまはお手上げと思い、素気なく返した濃姫の隣に恐る恐る入る。こたびはたしかに自分が悪かったが、このように遠慮ない物言いをされていることが家臣に知れたら赤恥だ。だがそれを帳消しにしてくれる言葉を濃姫はくれた。もう一度、夢を見たいというあの言葉。天下への夢は日に日に高まっていたが、まだこれといってなにもできていない。それでも、あの言葉が日夜、夢の支えになっていた。さきほどは確かに配意ができていなかったと感じ、「さきほどはすまん」と声をかけた。
 濃姫は、配意のない信長の言葉が完全に嘘ではなく、潔く忘れられない自分にはがゆくて、返事ができなかった。


 翌日の早朝、剣豪、明智光秀が那古野城に到着した。
 政秀は光秀と、濃姫の話をするなかで、濃姫と光秀が従兄妹同士であることを知り驚嘆する。光秀は100人に囲まれても無傷で生還し、一騎打ちにおいては無敵と評されている。そのような男と濃姫が従兄妹であり、親しい仲――。もはや天下を取った気分である。信長と濃姫の仲がひずんでいるとも知らず。
 信長は日が昇る前に父の新しい居城である末森城に向かった。一方の濃姫はいつものように敷地内に建つ稽古場で稽古に励んでいた。
「まだこんなにもあるのか……」
 稽古を終え、ぼやきながら床を布で磨いていたとき――。
「励んでおるな、帰蝶」

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その声に驚いて振り向くと、出入り口の引き戸の向こうに光秀が立っていた。
「……光秀様……」
 光秀が一歩足を踏み入れて言う。
「掃除をしているのか?」
「あなたから教わりました。稽古場は常に綺麗にしておくものだと。最近、稽古ばかりして掃除をさぼってしまって。申し訳ありません」
 師に頭を下げるような口調で返すと、憂いを帯びた瞳で光秀を見つめた。
「そうか。かわりないか?」
「光秀様。わたしはもう、帰蝶ではありません……」
「おまえらしくないな」
 駆け寄って、光秀の胸に顔をうずめた。
 なぜ自分に駆け寄ってきたのか。なぜなにも言わず胸に顔をうずめて動かないのか。いまの信長よりも濃姫と長く過ごしてきた光秀には、濃姫の心情がよくわかっていた。
「自分らしさを失ってまで生きることほど、辛いことはない。どんなときも、おまえはおまえでいればいい」
 いまの濃姫にとっては、心が洗われる言葉だった。

 

 その夜、末森城にいた信長は濃姫のことが気がかりでしかたなかった。父に狭い部屋に案内され、ふたりきりで話をしようとしているのを見て、他人には聞かれてはいけないよほど重大な話なのだと感じた。その通り、那古野城の心配事をすぐに忘れさせるほどのものだった。
 父の口から出た『松平氏』は、この尾張の右隣にある三河国(みかわのくに)の武将である。松平は、さらにその右隣にある駿河国(するがのくに)を支配する大大名、今川氏に従属している。尾張に近い西三河に勢力を伸ばした織田家に対抗するためである。そしてこたび、今川家に忠誠の証として送られるはずだった松平家の嫡男、6歳の竹千代が、驚くことに織田家に送られてきたのだという。
竹千代を護送していたのは、三河の武将、戸田康光。松平に従属している男だ。
 護送の一同が道を間違えたのかと父に本気でたずねたが、もちろんそうではない。
 康光はこう述べているという。

『戸田家や松平家のなかには、有力大名である今川家に少数の兵で対抗してきた織田家になびくものが少なくない。
織田家に今川と互角の兵力さえあれば、織田家優勢』

 織田家と斎藤家が同盟を結んだため、織田家優勢の機運は高まっているという。それを聞いた信長は瞬時に天下統一への思いが込みあげてきた。なぜなら今川家の当主である義元は、天下統一に最も近い男と名高いからである。
 康光をはじめ、織田家に従属しようとしている一部の勢力はこう考えている。竹千代を人質にし、松平が織田家に屈服すれば、織田、斎藤、松平が巨大な同盟を結び、今川に対抗できると。
「そううまくいく話ではないのだがな」
 と冷静さを見せる信秀だったが、まんざらでもない表情だった。
 今川は、東海道の甲斐国(かいのくに)の大名である武田信玄、そして同じく東海道の相模国(さがみのくに)の大名、北条氏康と三国同盟を結んでいる。大規模な同盟だが、じつは一枚岩ではない。
 北条は、信秀と友好的関係であり書状のやりとりをする仲である。その書状の中で氏康は、義元から疑われていると不満を漏らしていたのだ。信玄については、義元に心酔しているというが、甲斐国のそばには越後国(えちごのくに)の上杉家がある。この上杉の下に、長尾景虎(のちの上杉謙信)という男がいるが、15歳にして謀反を鎮圧し初陣を勝利で飾ったという。
 この景虎が将来、信玄にとって驚異になると信秀は予想している。つまり三国同盟は、いつ破綻してもおかしくないのである。信秀はこう言う。
「ほかにもやつらが恐れていることがある。おまえだ。うつけものと呼ばれたおまえは、わたしよりはるかに好戦的に見える。
そのおまえが、今度は斎藤家と同盟を結び、濃姫を得た。今川に対抗してきたわたしの存命中に、着々と地盤を固めるおまえを、やつらは恐れている。いつの日か、必ず機会を見て今川は尾張に攻めこもうとするはずだ。わたしが生きているあいだに、おれとおまえで、もっと織田家の地盤を強固なものにしなければならん。とくに隣国の三河は織田の命運がかかった国だ。そのため、康光の言うとおり、松平にそれとなく脅しをかけてみたが、竹千代を殺したければ殺せと言いおった。もちろん竹千代を傷つけるつもりなどないが」
「竹千代は見捨てられたということか」
「そこでだ。ひとまず那古野城に連れて帰り、近くの寺に預けてはくれぬか。友などひとりもいないのだ。面倒を見てやるといい。引き受けてくれるか」
「鶴を思いだす。あのような境遇の子をなくしてほしいと言っていた、あいつの言葉……。わかった。竹千代のことはまかせてくれ」
 信秀はどう転んでも今川との戦いは避けられないと覚悟していた。おそらく義元と戦うのは子の信長であろう。その信長の居城である那古野城は、かつて今川義元の父が築城したもので、信秀が戦で奪ったのだ。互いの息子がこの尾張をかけてふたたび戦う日が来る。
 信長も、この因縁の対決は宿命であると覚悟した。同時にふと濃姫を思いだす。濃姫があの日にくれた言葉。濃姫の夢、そして鶴姫の願い。強くこぶしを握りしめ、どんな痛みにも耐えて勝つと心に誓った。
 宿命の対決は、そう遠くない日に訪れることになる――。


 その数日後、日中に信長は竹千代の護送とともに那古野城に戻ってきた。光秀が濃姫と稽古場にいることを知るが、光秀と会うつもりはなかった。
 稽古場では、濃姫の剣さばきを見て、光秀はうむとうなずいていた。
「以前から武芸の才能があることはわかっていたが、まさかここまでとはな。すでに太刀の扱いかたは充分、身についているようだ。おまえなら、いつか明智流の真髄を極めることができるかもしれない」
「明智流の? 教えてください! 必ず会得してみせます」
「よし。俺を殺すつもりで全力でかかってこい。いまのおまえがおれに勝つには、いちかばちか力でねじ伏せるしか方法はない。持ち前の底力を使えば、おれの腕力といい勝負だろう。おれは一歩もここを動かない。すべての力をこめて向かってこい」
「しかし、これは本物の刀です」
「心配するな。わたしを信じて全力で来い」
「わかりました。いきます!」

 濃姫は美濃では男たちと稽古をするほど負け嫌いで、華奢ながらその馬鹿力は美濃では有名だ。光秀が剣豪として名高いのは知っているが、その実力を濃姫は見たことがない。光秀は刀を片手に立っている。本当に大丈夫かと一瞬ためらったが、信じて光秀に飛びかかり、中空から刀を振りおろした。
 ふたつの刀がぶつかる寸前、濃姫は動かない光秀を見て、しまったやりすぎたと思った。だが気づいたときには、光秀は片手に持った刀で軽々と受けとめていた。
 全力を使ったことで濃姫は体が硬直し、刀から反響する音が腕から肩に走り、一瞬身動きができなくなった。
「そ、そんな! 片手で……」
「わたしの脇差(予備の小刀)が見えるな。この至近距離なら、あいた左手で脇差を抜き、おまえを斬ることができる。一騎打ちにおいては、敵の防ぎかたが完全に予測できない以上、先に自ら全力で斬りかかるのは危険極まりない。であれば、敵の渾身の一撃を誘い余力を残して片方の手で防ぎ、敵の一瞬の硬直を狙ってふたつめの武器で仕留める。これが、一騎打ちにおける明智流の真髄だ」
 全力で斬りかかり、刀の重量も加わって、余力を残して片手で受け止められるはずはない。その答えを光秀は明かした。
「兵たちは、だれかを殺したくて戦をしているわけでも、死にたくて戦に向かっているわけでもない。生きていたいからこそ戦にのぞみ、命を散らしていくのだ。兵の上に立つ武将は、死んでいった兵たちひとりひとりの無念を背負って生きていく覚悟と、兵たちのために生き続ける勇気が必要となる。兵を動かす者が死ねば、兵は行き場を失ってしまう。その覚悟と勇気が、おのれの限界を遥かに超えた力を引きだしてくれる。おまえほどの武の才能を持つ者がその覚悟と勇気を得たとき、おまえはだれもかなわぬ最強の武将になるに違いない」
 そして、明智流奥義を会得するにふさわしい者は、死者の魂の拠り所となり、限界を超えた力を発揮できるという。

 

 すべての稽古を終えた。光秀は、信長が帰ってきたことを知ると、日があるうちに発つことにした。いまはそのほうがよいと感じたのだ。
 城門の外で、馬上の光秀を見送る――。
「とても有意義であった。この脇差はおまえのものだ。おまえを守ってくれるに違いない」
 光秀は自分の脇差を濃姫に授ける。
「必ず、大事にいたします」
「では、またな」
「光秀様!」
「なんだ?」
「……いつか織田家に仕えてほしい。世の平和のため、信長とわたしが誓った天下への夢。光秀様に手伝ってほしい」
「時がくれば、必ず」
「最後に……一度だけ、帰蝶と」
「帰蝶。また会いにくる。必ず」
「光秀様……どうか、お気をつけて……」
 帰蝶という名に別れを告げる覚悟。その覚悟がなければ、信長とともに天下統一など不可能だと濃姫は思っていた。
 もう帰蝶ではない。明智流の剣術を会得した濃姫は、濃姫として、妻として、凛として信長のもとに向かった。