第1話・3幕

『帰蝶ではなく濃姫として』

 

 

 

 

 信長は鶴姫を父の信秀に会わせるため、いつものように供を連れず単身で鶴の家に到着した。
「鶴、迎えに来たぞ……鶴?」
 入口から中を覗くが返事はない。裏へ回ろうとしたとき――。
「動くな」
 脇から姿を見せたのは刀を持った侍。その腕には拘束された鶴がいた。
信長には男が自分を狙った刺客であるとすぐにわかった。
「信長……おっかあが……。ふたりとも殺される。わたしはいいから逃げて!」
「鶴に手を出すな!」
「刀を後ろに投げ捨てろ。言っている意味はわかろう」
「だめ……」
「先に鶴を放せ。言うとおりにする」
「もう一度だけ言う。刀を捨てろ」
「……わかった」
 と刀を後ろに投げ捨てる。選択の余地はなかった。信長の決意を見て取った鶴は激しく暴れて男の手から離れる。
男はそれを逃さず鶴の背中を斬り裂く。裂け目から血しぶきがあがり、男の目を塞いだ。
よろけ目を拭って視界が開けた瞬間、信長の一閃が目に映る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鶴……おい」
「……無事で……よかった」
「何も言うな! いま運ぶ!」
「だめ……ここにいて」
「ばかいうな! こんな傷、すぐ治してやる!」

「覚えてる……? 天下を取ってくれるって」
「忘れるわけない!」
「……よかった……ねえ……わたし……あんたのお嫁さんに……なれたんだよね……」

 無我夢中で、背中から溢れる血を体の中に救って戻そうとする。

だが、鶴はもう動かなかった。


 その4日後の夜。那古野城の一室には、知らせを受けた信秀の姿があった。
そばにいる政秀に問う。
「何者かまだわからないのか」
「手がかりになるようなものはなにも身につけておらず。しかし城内では、守護代、信友を疑う声が出ております。
信友は温厚な信秀様への警戒心は薄いと思われるものの、血気盛んな若君に対しては、その将来に相当警戒を強めていると耳にしております」
「だからどうしろというのだ。暗殺の疑いだけで兵を出せというのか。信友の放った刺客であるなら、それこそが奴の狙いだろう。証拠もなく動けばただの謀反だ。黒幕がわからぬ以上、下手に動くことはできん。よいか、あの娘のことはなかったことにしろとみなに伝えておけ。まず周りの者たちが忘れなければ、あいつは一生、この悪夢にとりつかれたまま生きていくことになる」
「承知いたしました」
「あいつはまだこもったきりか……。鶴姫とその母親の遺骨だが、様子を見てあいつに渡してやれ……。なんということだ。
濃姫との婚姻を明日に控えているというときに……」

 信長は後悔していた。子どものころならいざ知らず、いまの自分がどういう立場の人間か。それをもっと理解していれば、供をつけていたはず。自分の軽はずみな行動が招いた結果である。

 いまだ傷心中の信長のもとへ、ついに濃姫が嫁いできた。名は帰蝶だが、美濃から来た姫、という意味から、濃姫と呼ばれた。信長15歳、濃姫13歳のときである。
 しかし、信長は婚儀に姿を見せず、朝から城内に姿がなかった。夜になって、ようやく戻ってきたのである。

それを知った信秀は廊下で信長を呼び止める。すでに婚儀は終わっており、父から殴られてもいい状況だが、信秀の口調は優しかった。
「いったいどこへ行っていた。おまえの気持ちはわかっている。
だが正室を迎える婚儀に夫の姿がないではすまされないではないか?」
「骨を、埋めてきた」
「……おまえなりのけじめをつけて来たということか……。ならばそれ以上言うまい。姫が長いあいだ待っている。早く行ってやれ」
 信長は鶴姫の遺骨を埋めてきたのだ。幼いころ、天下を誓ったあの川辺に。この数日で、かれが出した答えである。

 寝巻きに着替えた信長が寝室に入る。灯りがわずかに部屋を照らし、互いの表情をうかがうのがやっとの中、
ふたりは初めて対面する。濃姫は蒲団のそばに正座したまま、信長を見ようとしない。
「待たせてすまなかった」
「構いませぬ」
 濃姫は淡々とした口調で返す。
「帰蝶と申します」
「年は13と聞いた。少し、大人びているな」
「左様にございますか」
「今宵はすまなかった」
「構いませぬ……形式上の婚儀に、夢など持っておりませぬ」
「……そうか。きょうは疲れているはずだ。明日またゆっくり話そう。灯りを消すぞ。早く休むといい」
 だが、濃姫は動かない。灯りを消し、振り返ると、きらりと光るものが目に入る。

 月光を受けた刃が信長に伸びるが間一髪で制止する。濃姫を押し倒して言う。
「最初からただならぬ殺気でわかっていた。懐に小刀とは。道三に命じられたのか」
「……おまえになにがわかる」
「なに?」
「……政略の駒として嫁に出されることは運命だと思って諦めていた。
形だけの婚儀とわかっていた……だからせめて……せめて普通の嫁として夫にあたたかく迎えられ、
夫婦仲睦まじく暮らす姿を想像しては、ありもしない夢を見てた。
将来を誓った人に別れを告げ、必死に泣くのをこらえてここまで来た。
友を捨て、兄弟たちから離れ、愛した人を諦めて必死にここまで来た。
なのにおまえは、その夢をだいなしにしたんだ……。
誰にもわかってもらおうなんて、ましてやおまえなんかにわかってもらおうなんて思っていない……。

この刀は、自分らしく命を絶てる、わたしの最後の希望なんだ……。
言いたいことは全部言った。手を放せ。もう、夢なんて……見たくはない」
 涙ぐんだその言葉が信長にはとても重たかった。鶴姫を失った悲しみのほとんどを残したままそう言われ、返す気力も言葉もなかった。小刀を奪い取り、必死に一言返す。
「ならば、帰してやる。そうしてやることしかできない」
「今度は帰れだと……? 本当に……自分勝手で、人の心をどこまでも惨めにする勝手なやつだ……!」
 濃姫は泣きだしてしまった。信長はどうしたらいいかわからなかった。濃姫に蒲団をかけてやると、小刀を持って部屋を出ていった。
 気持ちを落ちつかせるため、信長は城内を一周しながら濃姫を思いだす。
 まだ13の女性が政略結婚の駒として使われるのはこの乱世では普通のこと。だが、その者たちがどれだけの覚悟で嫁いできているかを考えたことはなかった。鶴姫の件があったとはいえ、初めての婚儀をだいなしにしてしまった。帰してやるとの言葉も間違っていたかもしれないと自分を責める。

 濃姫が心配になり、急ぎ部屋に戻ったが濃姫は眠っていた。せめて一晩だけでも夫婦としてすごそうと思い、濃姫に身をよせて眠りについた。

 

 翌朝、目を覚ました信長は蒲団を見るが、濃姫の姿はなかった。その目に、快晴を知らせる光が刺さる。
 いつもと違う光だった。その光に導かれ、障子を開けた。目に入ったのは、庭で薙刀を振っている濃姫だった。
想像もしてなかった光景に呆然とする。
「帰蝶? いったい、なにを」
「見てわからないか。稽古だ。薙刀は毎日稽古していたから自信がある」
 濃姫は手を止めて言う。
「鶴姫のこと、信秀様と、政秀殿から聞いた」
 互いにうつむいて、先に顔を上げたのは濃姫だった。
「おまえが天下を取ると本気で言うのなら、わたしはそれを手伝うことに決めた。
おまえが命をかけて変えたいと願うこの世界がどう変わっていくのか、
わたしはおまえの正室であることを誇りに思いながら、おまえの横で見ていたい。
もう一度だけ夢を見ようと思う。
だから、ここでおまえの妻として暮らす。帰蝶ではなく、濃姫として」
 そう言って濃姫は信長のそばに来て手を差しだした。それを信長は強く引き寄せ、濃姫を抱きしめた。濃姫の言葉に、ただただ涙しながら。
 こうして、生涯最大の盟友を得た信長は、天下への第1歩を踏み出したのである。

あとがき

 

信長の正室として嫁いできた濃姫。
その実像は、500年近くたったいまでも、多くの謎に包まれたまま。
嫁いできたあと、濃姫は突如として歴史の表舞台から姿を消したのである。
濃姫がどうなったのかを確実に知る者は存在しない。
あの信長の正室でありながら、そのほとんどが謎に包まれている濃姫。
現代の多くの人の想像力を掻き立てる、戦国最大の謎である。
信長とのあいだには、子供がいなかったというのが通説。
暗殺された、道三死後に美濃に返された、など様々な説あり。
また、関ヶ原の戦いの数年後まで生きていた、
江戸初期まで生きていたとも言われ、
信長とのあいだに、実は娘がいた、とも言われている。
謎に包まれながらも、1つだけ思えることがある。
従兄妹の可能性がある明智光秀と仲睦まじかったとされる濃姫は、
まむしと呼ばれた道三の娘として大きなプライドを持っていたはずである。
光秀と別れ、悲しみながらも、自分の運命から目を背けようとは
決してしなかったのではないだろうか。
実は平和主義者であり、心優しき男だったとも言われる信長が、
そんなひたむきに生きる濃姫をないがしろにするようなことは決してしなかったはずだ。
濃姫はなぜか表舞台から姿を消したものの、
陰で懸命に信長のために躍動していたのではないだろうか。