
第1話・1幕
『吉法師、天下への夢開く瞬間(とき)』
夢を見ていた。だが、夢の主はわからない。
時は戦国の世。ぼやけた視界のなかで、ふすまが開く。奥にひとりの男が鎮座している。姿こそはっきりとしないものの、それが放つ覇気は周囲の空間を撚(よ)るほどの光景である。
「道に迷ったか……それとも……にそそのかされたのか?」
男が口にするそれは切れぎれとしている。すると今後は――。
「いえ、あなたこそ、道に迷われている」
ふすまを開けて入った男が臆することなく返す。それを否定するようにすぐに女の声がする。
「なさねばならぬことがあるのです。あなたは、それから目を背けている」
侵入者に屈強な言葉で返すと、覇気を纏う男の前に長大な薙刀を持って立ちふさがる。
「是非もなし。なさねばならぬことをなそう」
そう命じられると、侵入者を説き伏せることも無駄とわかった女は薙刀を構え、長息のあと断を下して言った。
「わたしはもう、迷わない」
豪壮な薙刀をものともせず侵入者の男に瞬足で詰め寄った――。夢は、そこで途切れたのである。
いまからさかのぼることおよそ五百年ほど前。室町幕府の力が失墜し、戦国大名と呼ばれる者達が日本の覇権を求めて争った、戦国時代。その真っ只中の一五三四年、五月一二日。現在の名古屋市中区。当時は尾張と呼ばれていたこの地域の那古野(なごや)城にて、一人の男児が産声を上げた。吉法師と名付けられたかれは、天下布武を掲げ、長きに渡る戦乱の世に終止符を打とうとした古今無双の英雄。のちの織田信長である。
吉法師が八歳のときである。夏の盛り、賑やかな城下町で、吉法師と同い年のひとりの幼女がしゃがんで泣いている。名は鶴姫。どうやら吉法師が泣かせたようで、周囲にいる友の数人の子らが謝れと怒っている。
「また鶴を泣かせたなー。吉法師、謝れ!」
鶴の着ている着物はほかの子たちと同じだが、とくに鶴の服はあちこち朽ちていて、砂やほこりで汚れきっている。まるで吉法師が鶴を引きずっていじめたような雰囲気になっているが、違う。
続いてひとりの少女が怒鳴る。
「お尻触るなんて最っ低! 早く謝りなさいよ!」
「なんだ、おまえは触ってもらえないからって焼きもちか? 年上のくせにみっともないぞ」
「本気で殴るよ!」
このころのかれは、武将の子とは思えない粗野な身なりをしていた。武家の子であれば、小袖に袴(はかま)といった格好が普通だ。それが草履もはかず、庶民の子らと同じように麻の単(ひとえ)を着て、裾は少年らしく膝上まで上げ、おまけに砂で汚れきっているではないか。その見た目通り、吐く言葉もその通りである。
幼くして那古野城を与えられていた信長は、自信と活気に満ち溢れ、城下町の子どもたちと一緒に遊んでは、破天荒な性格で振舞っていたのだ。そのため周囲からは、尾張のうつけもの、と称されるようになっていたのである。
「悪かったな。これでいいだろ。あーもう、めんどくせえ。帰る。また明日、じゃあな」
そう言って去ろうとすると腕を少女がつかむ。
「ちょっと待ちなさいって!」
「なんだよ、謝っただろ」
「もう少し優しくしてやりなよ」
「べつにひっぱたいたわけじゃあるまいし」
「ねえ、真面目に聞いて。鶴、おっとう死んじゃってから、あんたになついてる。それはあんたもわかってるはず。あんた喧嘩強いし頼りになる。だけど思いやりがないし優しさもない。ちょっとは鶴の気持ちも考えな」
言い放ち、鶴を連れて去っていった。毎度のこととはいえ、さすがにほかの友らも呆れたのか、なにも言わずに少女のあとを追って去っていく。
「冗談も通じねえのかよ。たく、つまんねえやつらだな」
あてもなく城下を歩くさなか、ふと鶴のことを思いだす。少女らしく愛らしい顔をした鶴が、ぼろぼろの服を着て泣いている姿は見るも無残だ。着物(布)は庶民には高価な物で、複数持っている者は少ない。縮まないよう、洗うのはひとつの季節に一回程度。汚れていてもしかたのないことなのだが、ほかの子と比べてあそこまでぼろぼろになるのには理由があった。
友の少女が言ったように、鶴は吉法師になついている。そう口には出さないが、行動でだれもがわかるのだ。華奢な体で、吉法師の荒々しい遊びを真似る。かれのそばにいたいという表れとして。吉法師にも、なんとなくそれはわかっていた。さきほど少女にはっきり諌められたことで、あらためて鶴の気持ちを認識した。
少しやりすぎたかと、気になりはじめる。粗暴で一般常識の通じないかれであっても、懐かれるのは嫌いじゃない。いやむしろ、頼りにされるということは、武将の子にとっては褒め言葉であり名誉なのだ。少し反省したかれは、まだ日のあるうちに、山の麓にある鶴の家に向かった。
山の麓にある茅葺(かやぶ)き屋根の家がそうだ。鶴の着物に似てあちこち傷んでいる。
「鶴、いるか……? 鶴?」
入口を覗き込んで呼ぶ。少しして、まだ目を赤くした鶴が奥から姿を見せた。
「なに?」
「さっきは悪かったな。すまん……」
「……おっかあ! ちょっと出てくる」
と、吉法師の横を通っていく。
「おい、どこいくんだよ」
「散歩」
なにを考えているかわからないが、とりあえず付いていくことにする。他人に謝ったことがない吉法師は、どうやって切りだしたらいいかわからない。しかも相手は泣き虫だ。
いっとき歩かされ、さすがに声をかける。
「たく、いつまですねてんだよー」
「べつにー。散歩してるだけだもん」
予想外に明るさのにじむ声だった。
「早く帰らないと日が暮れるぞ」
「あんたこそ。早く帰らないと、お、し、か、り、を受けるんじゃないの」
「お化けがでるぞ」
「あんたお化け怖いの?」
「そうじゃなくって」
「あーつかれた。ちょっと座る」
川辺の草むらに座るふたり。
「なあ、まだ怒ってんのか?」
「なにが?」
「はあ? なんだよそれ」
「ここ大好き。うちから遠いから、ちょっとくるのに勇気いるんだ」
「おまえ、まさかそれでおれを引っ張ってきたのかよ」
「そゆことー、ふふ」
「たく、おれはおまえの家来じゃねーぞ」
「なんでいっつもそういう言いかたしかできないの」
と、ぼそっとつぶやく。
「なんか言ったか?」
「なんでいっつもそういう言いかたしかできないのかって言ってるだけ!」
「と言われても」
「あんたのそういうとこ、(小声で)大っ嫌い」
「はあ?」
「いっつも人の話、適当に流すし、優しくないし、なにより偉そうだし」
「おれは武将の子。しかも嫡男(正室の生んだ長男)で、父上の跡を継ぐんだ。偉くて当然だろ」
「武将なんて、ただの人殺じゃない」
そう小声でつぶやく。
「なんだと? もういっぺん言ってみろ!」
人殺しと言われ、謝りにきたことすら頭から吹き飛ぶほど逆上する。そして泣きだす鶴。
「くそ。いつも泣きやがって。卑怯だぞ!」
だが、鶴が泣いているのは、吉法師が声をあげたからではない。腕の中に顔を伏せてすすり泣きながら言う。
「あんたもいつかは、わたしのおっとうと同じように死んでいくんだ。戦(いくさ)なんてただの殺しあいじゃない。なにが武将よ。なにが大名だ。馬鹿みたい」
「それ以上言うと本気で怒るぞ」
顔を上げて言う。
「わたしは、あんたに死んでほしくない……」
鶴の泣き顔を見て、一瞬で怒りが静まる。
だれもが自分をうつけものとして見るなか、自分のことをひとりの人間として大事に思い、泣いてくれる鶴を、もう泣かせまいという気持ちが生まれた瞬間だった。そして、自分に死んでほしくないという、このたった一言に、恋をした。
日が暮れた草道、鈴虫の音色に包まれて、ふたりは帰路につく。
「もう日が暮れるな。どうした、足、痛いのか?」
長い時間歩いてきたため足を痛めたようだ。
「ほら」
と、しゃがみ手をうしろに伸ばす。
「おんぶしてやる」
「ありがと」
「よっこらせっと」
ふたたび歩きはじめた吉法師の背中で、鶴はなにを言っていいかわからなかった。毎日、そしてさっきまでいじめられていた。この先、ずっとそうなのだろうと思いこんでいた。でもたったの半日で、頼りたかった人の背中にいるのだ。
帰路を一歩、一歩進むたびに、鶴の人生は大きく変わろうとしていた。
「ねえ」
「ん?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
「……お嫁さんって、もう決まってるの?」
「嫁?」
「おっかあから聞いた。武将の息子はお国のために、他の武将の娘を嫁にもらうんだって」
「いつかはそうなるだろうって、父上が言ってた」
「そっかぁ……」
「なあ」
「なに?」
「ん、いや、なんでもない」
「人の真似しないでよ」
「武将って、ならずにすむ方法ないのかな」
「え?」
「おれは、この先もずっと、鶴や、みんなと楽しく遊んで暮らしたい。戦なんて、したくはない」
「さっきはごめんね」
「いいよ。本当のことだから。なにもかも、鶴の言うとおりだ」
「おっとう、戦にいく前言ってた。だれかが天下人になれば、戦はなくなるって。天下を統一すれば、殺し合う必用はないんだって。そしたら、みんな平和に暮らせる。毎日、いつもみたいに楽しく遊んで暮らせる」
「天下人……」
「わたし……あんたに戦にいってほしくはないけど、あんたに天下人になってほしいな」
「俺が天下人……だけど、天下人になるまでに、きっと人を大勢殺さなきゃならない。それは……おまえが泣くからしたくない」
吉法師の背中に顔を埋めて言った。
「もし本当に天下人になってくれるなら……わたし、泣かない……」
家につくまで、そのあとふたりはなにも話さなかった。
鶴の家の近くまできたとき、あたりはすでに真っ暗になっていた。
「ここで大丈夫」
「じゃ、降ろすぞ」
「ありがと。また、付きあってね」
「たく、わかった」
「ね、ねえ」
「どうした?」
「……ううん、なんでもない」
「なんだよ、またかよ。言えよ」
「……無理だってわかってるけど、わたし、あんたのお嫁さんになりたい」
そう言って走っていった。冗談を言っている顔には見えなかった。告白され、照れる気持ちと、応えてやりたいという気持ち、父がそんなことを許してくれるのかという思いなどが入り乱れ、鶴から目を離すことができないでいた。
すぐに馬が走ってくる。乗っているのは、吉法師の父である信秀と信長、二代に渡って織田家に仕える家老。信長の後見役でもある平手政秀である。
「若君、捜し疲れましたぞ。もう日が暮れております。みな心配されておりますぞ。家老たるこの平手政秀、日夜駆け回る若君にもしものことがあったらと思うと夜も……お? ところで若君。あの娘は」
「なんでもない。友だ。政秀、乗せてくれ」
馬が駆けだすと、もう見えるはずもない鶴の姿を探すように振り返りながら、居城である那古野城に向かった。

